十津川の「歴史」

ざっくりわかる、十津川の成立

古代(『古事記』、『日本書紀』にのっとった神話の話)

初代天皇神武の東征では、熊野から大和へ神武を導くためにヤタガラスが現れたとの記述があります。神武は船旅を経て「荒坂の津(おそらく大泊)」から紀州に上陸します。その後いきなり熊野の神に毒気を吹き付けられて苦戦しますが、天照の助けにより布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)を得てその場をしのぎます。
 そして陸路で熊野へ向かおうとするのですが、険しい山々に苦戦します。そんな時にまた天照より「頭八咫烏(やたがらす)」が遣わされます。このカラスが一行の道案内をしたそうです。ここに十津川の名称は出てきませんが、神武一行が辿ったルートや険しい山々の案内が可能であったということから、このヤタガラスが十津川の人々の先祖ではないかと言われることもあります。

10代目の崇神天皇が在位61年目に玉置神社を作ったと伝わります。

40代目の天武天皇の吉野挙兵(672年・壬申の乱)に十津川の民が出陣し、大きな功があったということで十津川が諸税勅免地となったと伝わります。

Museum of Fine Arts,Boston公式HPより画像転載 安達吟光「神武天皇東征」明治24年
Museum of Fine Arts,Boston公式HPより画像転載 安達吟光「神武天皇東征」明治24年
Photograph ©Museum of Fine Arts, Boston

中世

永治2年(1142年)の『高野山文書』には、「遠津川」という名前で十津川が登場します。十津川の名称は、都や津(港)から遠いという意味が込められていました。

96代目の後醍醐天皇(南朝初代天皇)は、鎌倉幕府を倒して建武新政を開始します。しかし多くの武士たちが新政に不満を募らせ、武士のトップである足利尊氏らと天皇は対立することになります。争いの末、天皇は大和国吉野に逃れ、南朝政権を樹立しました。

十津川は南朝との関係が深く、後醍醐天皇の皇子である護良親王も一時身を寄せていたといわれます。後村上天皇(南朝二代目天皇)や興良親王(護良親王の子)が発給したといわれる古文書が今も村に残されています。古文書には、南朝に尽くすよう十津川の人々に命じた内容が書かれています。十津川の人々は、狩猟などを生業としており、武術に優れていたこともあって、歴代南朝勢力からも重要視されていたのではないでしょうか。

近世

十津川の検地は天正15年(1587年)郡山城主豊臣秀長(秀吉の異父弟)によって行われました。これは秀長が、天正13年(1585年)に大和・紀伊・和泉の三国の太守として郡山城主となった際に小堀正次が検地奉行となり、実施されたものでした。

秀長の検地以降、十津川は近世の村組織として組み込まれていきましたが、ご赦免の特権は引き継がれたことがわかります。

これらのことから江戸時代の十津川郷の村々は1585年の検地から成立したと考えられます。以降100年ほど「十津川郷」ではなく「十津川組」「十津川中」と呼称されていました。

近代

明治元年(1868年)幕府が終焉を迎え、日本が大きく転換していくなか、翌2年に十津川は奈良府の管理となります。明治4年、十津川の郷士たちは幕末での京都御所の警備や戊辰戦争での功績が認められ士族となりました。

しかしながら、明治6年に地租法が改正され十津川も有租地となるなど、新たな時代の変化が訪れました。

特に大きな影響を及ぼしたのは、明治22年(1889年)8月の大水害でした。奈良県吉野郡一帯が未曾有の暴風雨に見舞われ、十津川は当時6カ村からなり戸数2,403戸、人口1万2,862人の山村でしたが、死者168人、負傷者20人、全壊・流失家屋426戸、半壊家屋184戸、水田の50%、畑20%が流亡、山林被害も甚大な被害となりました。そのままでは生活を立て直すことが困難な人々は、当時の政府の方針に従って600戸、2,489人が北海道に移住します。このとき移住した人々がつくったのが現在の新十津川町で、青年や教職員・児童生徒など年を追って親密な交流が活発に続けられています。

明治22年の大水害の翌年6月、十津川は6カ村を1カ村に統合し、十津川村が誕生しました。

以上のように、十津川は雄大な自然に囲まれながら、いくつもの時代を生き抜き、現在では日本一広大な村として今日に至っています。

<参考>

  • 西田正俊『十津川郷』奈良県十津川村役場 昭和7年
  • 奈良県教育委員会事務局文化財保存課編『学術調査報告書十津川』十津川村役場 昭和36年
  • 『新十津川百年史』新十津川町役場 平成3年
  • 『年表十津川の100年〔改訂版〕』十津川村 平成3年